結局私は何に怯えているのか?
私を縛り付けているものは何か?
結局そのすべての原因は、自分自身他ならない。
ずーと、ぐるぐるぐるぐる考えてた。
ここ最近、ウシジマくんを見ては考え、本を読んでは考え、
自転車に乗りながら考えた。
で、いつもの朝、いつものように会社に出勤途中、
坂道を下っているときに、スッと言葉が出てきた。
「本気で生きろ。失敗を恐れるな。」
この平和な、平和に見える世の中で、
日常的に死を意識して生きているだろうか?
そんなことしてたら疲れるし、今の世の風潮は、
「なにマジになっちゃてんの」だったり「がんばらなくていいんだよ」
だから、完全にその真逆なんだけど、でも、だからこそ、
「何かに凝ったり狂ったり」することが今の世の中、必要なんだと思う。
そうすりゃいつの間にか歩いてるんだ。「幸せな道」を。
私は19歳のときに沖縄に来て、いままで「がんばらなくてもいいんだよ」とか「あるがままでいいんだよ」とかそういう精神にすごく救われた。私は、自分で自分をすごく追い詰める性格だったし、自分のことが嫌いだったから。数々の人との触れ合いによって、私は少しずつ変わっていった。でもどうしても、精神の目指す方向が、ヒッピーにいったり、ロハスにいったり、スピリチュアルに行ったり、宗教に行ったりはしなかった。そういうのは片っ端から調べまくって、勉強したけど、そこに陶酔はしなかった。
それは私の中に「前提」があるからだ。
その前提とは「この世はすべてまやかし」
この前提を作り上げた要素は2つある。
ひとつめ。
私は小さい頃、毎日のように親父が暴りたり怒鳴ったりしていた。
それはもう怖くて怖くて、
その度に何度も何度も助けを求めた。
でも、誰も助けは来なかった。
次の日もその次の日も地獄は続いた。
次第に私の中である一つの考えが浮かんだ。
「この世には、ヒーローも神様も妖精も魔法使いもいない。自分でなんとかしなきゃ・・・!」
ふたつめ。
小さい頃、レストランにいくと、お子様ランチが食べたくて注文した。
お子様ランチは見た目も可愛いしおもちゃもついてくる、子供にとってはとてもワクワクする食べ物だ。それを食べていると横から母が「これも、これも、レイト―(冷凍食品の意味)。これもレイト―やな。おいしくないなぁ」とフォークでウインナーを転がしながらこのようなセリフを吐くのだ。ワクワクするタコウインナーもデミグラスハンバーグもレイト―で美味しくないものなのだ。
このような要素によって、私の前提はつくられた。
「この世はすべてまやかし・・・」
だからいままで本気になれなかったのだ。
「まやかし」だから本気になっても仕方がないと思っていた。
でもそうじゃない。
「まやかし」だったら、本気で、何かに凝ったり狂ったりして、生きろよ!
実際、今日という日は、死ぬ何万日か前だろう。
頭の上にタイマーがあるんだったら今この瞬間にも減ってんぞ。
だったら、本気で、今刻んでる時間を生きるんだ!
私が今まで出会った様々な思想のそのいずれにも陶酔していないのは、
私自身が現状に満足していないからだ。
でもそれでいいと思う。
追求して追求して、失敗して、別の方法を考えて、
あの日のように誰も何も来なくても、大切なのはその「過程」なのだ。
歩いてるときは気づかないけど、夢中になってるその瞬間が最高に輝いてる。
本気だして生きる。生きてみるわ。
考えまとまんなくても書くことにするわ。
誰かの何かの参考になるかもしれないから。